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2010年4月

2010年4月26日 (月)

YS-11の「事業仕分け」に思う

 何かと話題の、「事業仕分け」。
 おやっ?…と思ったのが、YS-11型機を俎上に挙げたこのニュース。産経新聞のサイトから。

 「【事業仕分け】1億円?2億円? 「YS-11」維持費めぐり仕分け人が怒り」  
 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100426/plc1004262115014-n1.htm

 産業遺産の維持保全を「仕分け」対象にすることには賛否両論があるのでしょうが、この論議を通じて見えて来ることがひとつ。

 仕分け人には、産業遺産の公開はどうあるべきかという根本の思想が無い。
 保管対象者には、そもそも産業遺産を維持するための効果的な方法論やノウハウが無い。

 各地でせっかく保管・保存されながら、「とりあえず取っとこ」程度の思想でその本来の価値を見出されずに「ゴミ」扱いされ、廃棄された産業遺産が何と多いことか。
 札幌でも昨年、交通資料館に保存されていたガラス製1000kwクラスの水銀整流器(グライター)が、子供向けの地下鉄運転台のモックアップ(本物ではなくハリボテ)を設置するために邪魔にされ、廃棄されてしまいました。

 YS-11よ、なにも「再び飛んでくれ」とまでは言わない。
 しかし、貴方の存在がどれほど「Made In Japan」のプライドを高めるのに役立ったか、多くの日本人が知っている。
 ぜひ、次代の子供たちに、その夢を語り継げるような形で、雄姿を見せて欲しい。
 …心から、そう願っています。

 そのためにも、「宝の持ち腐れ」にならないような手立てを願いたいものですが…。

Okadama199904001001 

 写真は、春うららな晴天の丘珠空港でスタンバイ中のYS-11。1999年4月撮影。
 (JA8727 1969年2月製造 No,2095 2000年10月解体)

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2010年4月15日 (木)

「背番号42」は誇りの番号

 プロ野球の「記録の神様」としてお馴染みだった宇佐美徹也さん(1933~2009)が、かつて上梓された「プロ野球 記録・奇録・きろく」(文春文庫・1987年刊)の中に“魔の背番号「42」は文字通り死に絶えそう”と題した一文を載せておられます(原典は「Number」1984年4月20日号に所載)。

 1984年当時、日本のプロ野球12球団で、この「背番号42」を付けた選手はゼロ。
 この当時までは、この番号を背負って活躍した選手も少なく(太平洋→クラウン時代の真弓と、近鉄時代のジョーンズが代表格)、日本ではエンギの悪い数字…ということもあり、大方敬遠されていたのでしょう。

 ところが。
 メジャーではこの背番号と言えば、やはりJackie Robinson(1919~1972)。
 人種の「壁」を最初に乗り越え、黒人がメジャーで活躍する道を拓いた選手として、あまりにも有名です。
 虚塵のクルーンも横浜時代から、彼をリスペクトする意味を込めて、背番号42でプレーしているそうです。

 今日は、メジャーの「Jackie Robinson's Day」。
 各球団の選手・コーチだけでなく審判員も、全員が背番号「42」でフィールドに立ちます。もちろん、イチローやゴジラも。
 そうそう、イチローが張本勲さんの生涯安打記録を塗り替えたのも、1年前のこの日でした。

 昨年も書きましたが、Jackieの存在無くしてメジャーが真の“メジャー”になることは無かったでしょう。のみならず、アメリカの現代史における黒人の地位すらも、大きく変わっていたかも知れません。
 その意味でも、アメリカにとって「背番号42」を受け容れたことからもたらされた“財産”は、計り知れないものだったと確信しています。

 下柳・木田・萩原など、最近は日本人でもこの番号を付けるプレーヤーが増えています。宇佐美さんが話題にした当時に比べると、「拒絶反応」も薄れているのでしょうか。
 是非彼らにも、この背番号に込められた「意義」を共有しながら、フィールドに立って欲しいと願っています。

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2010年4月 3日 (土)

「命」の報道は慎重に…

 ジャイアンツの木村コーチがくも膜下出血で倒れ、広島大学病院に搬送されたニュースが、各局で報じられています。
 グランド上に崩れ落ちるように倒れる様子を捉えていた局もあり、ジャイアンツファン以外の野球好きの皆さんにとっても、衝撃的なシーンだったと思います。
 容態は予断を許さない状況のようですが、一日も早い回復を祈りたいものです。

 ところが。
 TBSがローカルニュースで、アナウンサーが救急搬送されたことを伝えていたのに、字幕では「木村コーチ急死」と出してしまい、その後訂正放送をする事態になりました。
 サンケイスポーツのWebサイトに、コトの一部始終が紹介されています。
 『TBSがG木村コーチを「急死」と誤って表示』
 http://www.sanspo.com/geino/news/100402/gnd0403000-n1.htm

 正直、コレはひどい。間違いでした…で済まされる問題じゃない!

 いかに「JUST IN」で飛び込んで来たニュースでも、人の生死に関わる報道は慎重に扱って欲しいものです。
 そういう積み重ねこそが、「命」に繋がるものを伝える、何よりのキャンペーンにもなることでしょう。


 私の大好きなノンフィクションに、1979年1月に大阪で発生した「三菱銀行事件」の際の新聞記者の奮闘振りを時系列で追った「ドキュメント新聞記者 ~三菱銀行事件の42時間~」(読売新聞大阪社会部編、1980年刊行・1984年文庫化)という本があります。
 現在、マスコミで広く活躍されている大谷昭宏さんが、この当時読売大阪に在籍していて、主人公の一人として登場しています。

 この中の、最も印象的なシーン。

 人質と共に42時間に渡る支店店内への篭城後、大阪府警の狙撃部隊によって犯人は逮捕され、瀕死の重傷を負ったまま病院へ搬送されます。
 読売大阪の社会部内でも、人質の安否と犯人の生死の確認作業に追われることとなりますが、そんな中で社会部に設置されているテレビが「犯人死亡」の一報を流し、社会部内にどよめきが起こります。
 それを制したのが、当時の社会部長だった黒田清氏(1987年退社・フリーとして活躍後、2000年没)の、この一言でした。

 「うちの記者が言って来るまでは、死亡じゃないぞ!」

 …犯人が息を引き取ったのは、それからほぼ半日後のことでした。

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