2010年6月15日 (火)

仕事帰りの「ぶらり鉄」

 この時期は日没が遅く、仕事がハネた後でもまだまだ陽が高いのです。
 ちなみに昨日、札幌の日没は19:16でした。

 ということで、カミさんが網走へ出掛けてフリーだった先週の金曜日。
 出勤時にコンデジをショルダーに忍ばせて行き、仕事帰りに小樽のマチナカへの寄り道「決行」と相成りました。

 目指した先は、水天宮への参道に架けられている花園橋。
 花園の飲み屋街から函館本線をオーバークロスして、水天宮へ向かう道です。

 ということで、その時の「釣果」から3ショット。

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 水天宮側から花園橋を挟み、花園地区を望んだところ。
 ミツウマの広告アーチも、なかなかレトロな感じです。

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 小樽18:04発の3966M快速「エアポート184号」を橋上から。
 ちょうど今時期だと、サイドがイイ感じに光ってくれます。
 コンデジなので、レンズを金網に突っ込んでカゲ無しで撮れました。

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 同じ列車を、南小樽方へ後追いで。
 手前のちょっと凹んだ敷地が、かつての手宮線(1985年11月廃止)の跡地です。

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2010年4月26日 (月)

YS-11の「事業仕分け」に思う

 何かと話題の、「事業仕分け」。
 おやっ?…と思ったのが、YS-11型機を俎上に挙げたこのニュース。産経新聞のサイトから。

 「【事業仕分け】1億円?2億円? 「YS-11」維持費めぐり仕分け人が怒り」  
 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100426/plc1004262115014-n1.htm

 産業遺産の維持保全を「仕分け」対象にすることには賛否両論があるのでしょうが、この論議を通じて見えて来ることがひとつ。

 仕分け人には、産業遺産の公開はどうあるべきかという根本の思想が無い。
 保管対象者には、そもそも産業遺産を維持するための効果的な方法論やノウハウが無い。

 各地でせっかく保管・保存されながら、「とりあえず取っとこ」程度の思想でその本来の価値を見出されずに「ゴミ」扱いされ、廃棄された産業遺産が何と多いことか。
 札幌でも昨年、交通資料館に保存されていたガラス製1000kwクラスの水銀整流器(グライター)が、子供向けの地下鉄運転台のモックアップ(本物ではなくハリボテ)を設置するために邪魔にされ、廃棄されてしまいました。

 YS-11よ、なにも「再び飛んでくれ」とまでは言わない。
 しかし、貴方の存在がどれほど「Made In Japan」のプライドを高めるのに役立ったか、多くの日本人が知っている。
 ぜひ、次代の子供たちに、その夢を語り継げるような形で、雄姿を見せて欲しい。
 …心から、そう願っています。

 そのためにも、「宝の持ち腐れ」にならないような手立てを願いたいものですが…。

Okadama199904001001 

 写真は、春うららな晴天の丘珠空港でスタンバイ中のYS-11。1999年4月撮影。
 (JA8727 1969年2月製造 No,2095 2000年10月解体)

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2010年4月15日 (木)

「背番号42」は誇りの番号

 プロ野球の「記録の神様」としてお馴染みだった宇佐美徹也さん(1933~2009)が、かつて上梓された「プロ野球 記録・奇録・きろく」(文春文庫・1987年刊)の中に“魔の背番号「42」は文字通り死に絶えそう”と題した一文を載せておられます(原典は「Number」1984年4月20日号に所載)。

 1984年当時、日本のプロ野球12球団で、この「背番号42」を付けた選手はゼロ。
 この当時までは、この番号を背負って活躍した選手も少なく(太平洋→クラウン時代の真弓と、近鉄時代のジョーンズが代表格)、日本ではエンギの悪い数字…ということもあり、大方敬遠されていたのでしょう。

 ところが。
 メジャーではこの背番号と言えば、やはりJackie Robinson(1919~1972)。
 人種の「壁」を最初に乗り越え、黒人がメジャーで活躍する道を拓いた選手として、あまりにも有名です。
 虚塵のクルーンも横浜時代から、彼をリスペクトする意味を込めて、背番号42でプレーしているそうです。

 今日は、メジャーの「Jackie Robinson's Day」。
 各球団の選手・コーチだけでなく審判員も、全員が背番号「42」でフィールドに立ちます。もちろん、イチローやゴジラも。
 そうそう、イチローが張本勲さんの生涯安打記録を塗り替えたのも、1年前のこの日でした。

 昨年も書きましたが、Jackieの存在無くしてメジャーが真の“メジャー”になることは無かったでしょう。のみならず、アメリカの現代史における黒人の地位すらも、大きく変わっていたかも知れません。
 その意味でも、アメリカにとって「背番号42」を受け容れたことからもたらされた“財産”は、計り知れないものだったと確信しています。

 下柳・木田・萩原など、最近は日本人でもこの番号を付けるプレーヤーが増えています。宇佐美さんが話題にした当時に比べると、「拒絶反応」も薄れているのでしょうか。
 是非彼らにも、この背番号に込められた「意義」を共有しながら、フィールドに立って欲しいと願っています。

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2010年4月 3日 (土)

「命」の報道は慎重に…

 ジャイアンツの木村コーチがくも膜下出血で倒れ、広島大学病院に搬送されたニュースが、各局で報じられています。
 グランド上に崩れ落ちるように倒れる様子を捉えていた局もあり、ジャイアンツファン以外の野球好きの皆さんにとっても、衝撃的なシーンだったと思います。
 容態は予断を許さない状況のようですが、一日も早い回復を祈りたいものです。

 ところが。
 TBSがローカルニュースで、アナウンサーが救急搬送されたことを伝えていたのに、字幕では「木村コーチ急死」と出してしまい、その後訂正放送をする事態になりました。
 サンケイスポーツのWebサイトに、コトの一部始終が紹介されています。
 『TBSがG木村コーチを「急死」と誤って表示』
 http://www.sanspo.com/geino/news/100402/gnd0403000-n1.htm

 正直、コレはひどい。間違いでした…で済まされる問題じゃない!

 いかに「JUST IN」で飛び込んで来たニュースでも、人の生死に関わる報道は慎重に扱って欲しいものです。
 そういう積み重ねこそが、「命」に繋がるものを伝える、何よりのキャンペーンにもなることでしょう。


 私の大好きなノンフィクションに、1979年1月に大阪で発生した「三菱銀行事件」の際の新聞記者の奮闘振りを時系列で追った「ドキュメント新聞記者 ~三菱銀行事件の42時間~」(読売新聞大阪社会部編、1980年刊行・1984年文庫化)という本があります。
 現在、マスコミで広く活躍されている大谷昭宏さんが、この当時読売大阪に在籍していて、主人公の一人として登場しています。

 この中の、最も印象的なシーン。

 人質と共に42時間に渡る支店店内への篭城後、大阪府警の狙撃部隊によって犯人は逮捕され、瀕死の重傷を負ったまま病院へ搬送されます。
 読売大阪の社会部内でも、人質の安否と犯人の生死の確認作業に追われることとなりますが、そんな中で社会部に設置されているテレビが「犯人死亡」の一報を流し、社会部内にどよめきが起こります。
 それを制したのが、当時の社会部長だった黒田清氏(1987年退社・フリーとして活躍後、2000年没)の、この一言でした。

 「うちの記者が言って来るまでは、死亡じゃないぞ!」

 …犯人が息を引き取ったのは、それからほぼ半日後のことでした。

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2010年3月24日 (水)

40年目の「おつかれさま」

 昨日に続いて、函館市電ネタです。あしからず。

 函館市電と東京都電は線路の幅(軌間)が同じ1372mm(4フィート6インチ)。
 その縁で昔から、東京市電・東京都電の中古車が多数函館に転入しています。1934年3月21日の函館大火で多数の車両を焼失した後にも、当時の東京市電から4輪単車を大量に譲り受け、その一部が現在も除雪車として健在です。

 さて、今回引退する1000形1006も、もと東京都電7000形。1970年に函館市電に譲渡され、以来40年に亘り函館を走り続けて来ました。
 当初は10両(1001~1010)が転入し、ほぼ都電時代そのままの姿で活躍を始めたのですが、1971年のワンマン化の際に正面窓の大小2枚窓化と塗装変更が行われています。しかし状態不良の車両を中心に、早くも1973年までに5両が廃車。さらに1979年と1985年に1両ずつが廃車となり、以後は1006~1008の3両だけが在籍していました。

Hakoyachigashira19830326101
(1007 谷地頭 1983- 3-26)

 「故障が多い」「車体幅が狭く、詰め込みが利かない」等、関係者からは決して評判の良い車両とは言えなかった1000形ですが、1985年に残存車両の再整備が行われた頃からは稼働率も上がり、街中でよく見かけるようになりました。
 1993年からは1007が都電時代の塗装に戻され、活躍を続けましたが、2007年に1007・1008が廃車。孤塁を守って来た1006(旧都電7033)も、この3月で引退することになったものです。

 この1006も、退役を控えた昨年から都電時代の塗装に戻されています。都電に残存した7000形は1977年~1978年に車体新製されていますので、オリジナルボディの7000形としてもこの車が最後の「現役」でした。
 それだけでなく、正面の変形2枚窓は元々、函館市電の600形・700形(共に1973年廃車)が採用していたデザインなのです。ある意味1000形は、これらの「忘れ形見」でもあったのですね。

 新製から55年。そして函館転入から40年。
 ひとつの歴史がまた、終わろうとしています。

 新旧両塗装の1000形1006のUpを、並べてみました。
Hakoyachigashira19830326102
 (谷地頭~青柳町間 1983- 3-26)
20100320_1116 
 (駒場車庫構内(敷地外から) 2010- 3-20)

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2010年3月23日 (火)

25年目の「サヨナラ」

 函館市電にこの春、「超低床車」9600形の第2編成(9602AB)がデビューすることに。
 これに伴い、代替として710形711(1959年新潟鉄工所製・1985年国鉄五稜郭車両所更新)と、元都電7000形最後の生き残りだった1000形1006(1955年日本車輌製・1970年譲受)が、3月31日限りで引退することとなりました。

 そこで廃車前に一度、最期の姿を記憶に留めておきたいと思い、日帰りの弾丸ツアー敢行と相成ったのです。

 この711、実は更新後のデビュー直前にも試運転の様子をキャッチしています。国鉄の車両所が手がけた初の「市電」ということで、当時はずいぶん話題になりました。
 現在の函館市電の「標準色」となっているアイボリーとライトグリーンの塗り分け(CM塗装が多いため、なかなかお目に掛かれませんが…)も、もともとはこの車に採用されたものでした。

Hakokomaba19850802101
(1985-8-2 駒場車庫前)


 デビュー後しばらくしてから全面広告車化されていたこの車ですが、引退を控えて久々のオリジナル塗装に。ただ、デビュー当初はサイドの車号が切文字の貼付だったのですが、ちょっと貧相なペンキ書きになっているのが残念でしょうか。

20100320_1064
(2010-3-20 宝来町)

 皮肉なことに、未更新車よりも先に退役することになった711。やはり、1両だけの存在故に扱いにくい面も多かったのでしょう。
 国鉄五稜郭車両所ではこの後に500形505の更新(2代目501)も手掛けていますが、こちらも早々に貸切車化されています。

 デビューから半世紀以上、そして更新から25年。
 あとわずかの引退まで、ぜひ無事に使命を果たして欲しいものです。

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2010年3月17日 (水)

「デジタルツーカー北海道」から…

ブログネタ: あなたが使っている携帯電話のキャリアは?参加数拍手

 携帯電話を初めて持ったのが、13年前。

 当時、北海道でサービスを開始したばかりだった「デジタルツーカー北海道」の端末が、ヨドバシカメラで「1円」で入手出来た(ポイントで買ったため、実際にはタダ)ことがキッカケ。
 この当時、NTTドコモ・セルラー&IDO各社・デジタルホン各社・ツーカーグループと、主な携帯電話キャリアは4グループに分かれていたのですが、東名阪以外の地方進出に際してはデジタルホンとツーカーの両グループが合同で「デジタルツーカー」ブランドを立ち上げ、進出していたのです。
 初めて持った携帯電話は、三菱電機製の「D2」。ツーカーTH461のデジタルツーカー版で、東名阪地区ではツーカーのネットワークへローミングするようになっていました。この当時は機種によって、ローミング先がツーカーorデジタルホンの何れかに分かれていました。

 以来、J-PHONEVodafoneSoftBankとブランドは変わりましたが、今もSoftBankユーザーです。
 機種は(デジツー)三菱D2→シャープSH4→(J-PHONE)三菱J-D03→三菱J-D05→(Vodafone)三菱V401D→(SoftBank)東芝912T。延べ6台のうち4台が三菱でしたが、現在は携帯電話事業から撤退したのが惜しまれます。使い勝手が良く、気に入っていたのですが…。

 東芝912Tは2007年から使用し、今年で3年目。
 初の3G機種で、しかも初使用の東芝製だったため、馴染むにはちょっと時間が掛かりましたが、慣れるとなかなかの使い心地です。ただ、メールにATOK機能がなく、時々バカな変換をやって面喰わされるコトもあります。

 そろそろ次を…と考えていますが、東芝のハイエンド機は最近SoftBank向けにリリースされていません。おサイフケータイの機能で家電のポイントカードを使用していることもあり、i-Phoneへの乗り換えも現実的ではありません。
 また別の会社に慣れなければならないのか…と考えると、ちょっと考えてしまうのですが…。

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2010年2月27日 (土)

誤変換

 古くからインターネットをやっていた方なら、PCのワープロソフトの誤変換事例を集めた「世間虚仮」というサイトがあったのをご存知の方も多いと思います。
 
 「タイ料理コンテスト」が「大量離婚テスト」になったり、
 「JR東海」が「JR倒壊」になったり(ちなみに今打っていた時には「JR当会」と出た)、
 …はたまた、「大観覧車」が「代官乱射」になってしまったり。
 いつも笑わせてもらったものでした(現在も、アーカイブが残っています)。


 最近は流石に、Wordのソフトも進化を重ね、なかなかケッタイな変換は出なくなりましたが…。
 地名では時々、どうやっても出て来ないものがあります。

 札幌市内だと、豊平区の「月寒」(つきさむ)がその一例。
 「つきさむ」と打つと、「付きサム」と出てしまいます。
 仕方なく、「つき-さむい」と打って、一文字消しています。

 多分他にも、「一発で出て来ない地名」って、まだまだあるのでしょうね。
 以前、Panasonicのワープロを使用していたのですが、「あっけしちょう」(厚岸町)と打つと「呆気市長」と出てしまい、文字通り呆気にとられたことがありました。

 とは言え、最近のWordは学習能力もちゃんとあります。
 僕のPCでは「きょじん」と打てば「虚塵」と一発変換されますわーい(嬉しい顔)

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2010年2月15日 (月)

残っていた「帝國銀行」

 先週金曜日の、仕事帰り。
 ちょっと早目に職場を出れたので、「小樽雪明かりの路」会場をひと回りしてから帰ろうと考え、小樽のマチナカへ。

 旧銀行街の交差点まで来ると…おや?空家の筈の旧三井銀行小樽支店に灯りが入っている?
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 近づいてみると、なんと「内部公開中」。NPO法人のイベントで、館内見学とアート展を実施しているとのコト。
 迷うことなく、お邪魔させて頂きました。

 三井銀行小樽支店は1927年に、曾禰中條建築事務所の設計で建築されています。鉄骨鉄筋コンクリート地下1階・地上2階建てで、かつてこの界隈に建ち並んでいた都市銀行各行(三菱・第一・拓銀・勧銀・富士・東京など)の中でもひときわ存在感のある建物です。
 三井→帝國→三井→太陽神戸三井→さくら→三井住友…と銀行名が移り変わりながらも、都市銀行最後の「小樽支店」(1980年代の一時期、特別出張所に格下げされたこともあった)として使用されて来ましたが、2002年11月に閉店。現在は石屋製菓の所有となっています。

 営業フロアだけでなく、2階の会議室、1階奥の金庫室と支店長室、地下の貸金庫室などを案内して頂きましたが、床材や調度品などが創建当時のまま残されている所が多く、往時の華やかさが偲ばれます。長らく空家になっているこの建物ですが、石屋製菓では内装保持のため冬季間にはきちんと暖房を入れ、環境の保全を図っているそうです。

 そして驚いたのが、2階会議室に展示されていた各時代の銀行看板。
 上記のとおり、時代と共に改称を繰り返して来たこの銀行ですが、ほぼ全期間の行名銘板が残されています。
 特に目を引くのが、「帝國銀行小樽支店」の軒看板。
20100212_1051
 帝國銀行は1943年に旧三井・旧第一両行の合併により発足し、1944年に十五銀行を吸収合併しています。しかし敗戦後の行内対立から1948年に第一銀行と(新)帝國銀行が分離、帝銀は旧財閥名使用が可能となった1954年に再び「三井銀行」に改称しています。
 (一般的には、1948年1月に旧椎名町支店で発生した「帝銀事件」で、名を知られているでしょうか…)

 従ってこの軒看板、1943年から1954年までの期間に掲げられていたものと思われます。
 すでに半世紀以上経過。よくぞ残っていたものです。

20100212_1070
 銀行営業当時のカウンターなどもほぼ原型で残されているこの建物ですが、それ故に再利用が難しいとのこと。しかし、このまま「閉鎖」しておくには、あまりにも惜しい文化遺産です。
 ぜひ何らかの形で、再利用されることを期待したいものです。 

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2010年2月 1日 (月)

そして何もなくなった…。

 週末は、2年ぶりに釧路へ。
 リンク先の「思いで鉄道探検団」の皆さんとご一緒させて頂き、「SL冬の湿原号」の乗車と撮影で走り回って来ました。

  土曜日の夕方、SL撮影から帰ってすぐ。
 たまには釧路の街中を歩いてみよう…と思い、駅前から幣舞橋を渡って、石川啄木所縁の資料が展示されている「港文館」まで、徒歩で往復して来ました。

 釧路駅前から幣舞橋にかけての北大通は、かつては釧路のメインストリートとして栄えた通り。釧路駅前の金市館(のちラルズプラザ)、十字街地区の丸三鶴屋(1996年から丸井今井釧路店)・くしろデパート(のちKOMくしろ)・丸ト北村などが核店舗となり、一時は「釧路市内商業小売額のおよそ4割をこのエリアで売り上げる」と言われる程の賑いを見せていました。
 丸三鶴屋周辺のバスのりばは「十字街」と通称され、各方面・系統別に上下4か所ずつ、計8か所の停留所が設けられていました。

 ところが1970年代半ばから、郊外大型店の進出による都心商店街の衰退…という典型的なパターンが、釧路でも顕著に。
 先に述べた大型店も次々と閉店・撤退が続き、2006年の丸井今井釧路店・KOMくしろの閉店を以て、北大通沿いのの大型店はついに全滅。幣舞橋たもとのフィッシャーマンズワーフ(MOO)と、やや離れたアベニュー946(もと長崎屋釧路店)、和商市場が残るだけとなりました。
 北大通沿いにあった家電量販店・メガネ店・金物店・書店・靴店・陶器店、果ては複合レジャービルまでも、大型店の撤退と前後して次々と閉店。もはや小型店が散在するのみとなった北大通は、完全に商店街としての地位を失いました。
 十字街のバス停もバス路線や運航本数の減少に伴い、現在では上下2か所ずつに統合されています。

 かくて現在、週末の北大通にはもはや人の賑いなどなく、寒空に街頭放送のみが鳴り響くのみとなっています。1999~2002年の釧路在住時にはまだ丸井今井などが営業していて、寂れたとはいえ一応の街らしさがあったのですが、完全にトドメを刺されてしまいました。
 いたる所に、「売物件」「テナント募集中」の貼紙が。十字街かど(北大通6丁目)の旧ショッピングヤスモトのビルのように、閉店から30年近くも建物の大半が空きビルとなっているケースもあります。

 6丁目の「十字街交差点」から南側。真ん中のビルが、丸井今井釧路店跡(こちら側の旧館は2004年に閉鎖)。
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旧KOMくしろ。1964年に「寄り合いデパート」としてオープンしましたが、2006年に閉店。建物はそのまま残されています。
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 最近はビジネスホテルの開業ラッシュのようで、スーパーホテル(駅近くに2か所)・ルートイン・コンフォートホテル・東横イン・ラビスタといったホテルが次々に進出していますが、これとても街の賑いに寄与しているとは言い難い…というよりも、街中ではコンビニすら数少なく、宿泊客が買物に難儀している有様です。ことココに至っては、もはや北大通エリアを「商業地区」として再生することは非現実的なのでしょう。
 釧路駅に近いという立地条件を活かせば、アクセシビリティに優れた「定住地区」として高齢者向けの集合住宅などを建て、そこから需要を導き出す形で商業立地を図るように仕向ける方が、コンパクトな街づくりの観点からはまだ可能性があるでしょうか。

 …それにしても、ココまで見事に「街中が空洞化」するものなんですねぇ…。

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